日々更新する予定のブログ

いろいろ中が変わってます。

無題

SNSを見ていて、深く物思いに沈んでしまった。

10月21日の明け方...

 

とある絵師が今の自分と同じとしくらいから、そのアカウントをずっと使い続けていたらしい。

 

色々と思うところがあった。

 

 

 

 

 

いままで、好きであったgenreがそうでなくなりつつある。今まで、絶対にブロックしないであろうところを、4つちかくブロックしてしまった。

 

私もその命題が間違っているのは考えてみれば自明であることがすぐにわかるはずなのに、そうではないと自分に思い込ませてしまっていた。久しぶりに、愚かな間違いをしたなぁとつくづく思う。もちろん自分に対してだ。清純なのなどそう簡単に存在しない。本当に幼稚だと思うが、そうであることを願ってみていなかっただけなのだと、本当のところから自らの思考に気づかぬうちに捏造してしまっていたのだと悟った。A~Bが嫌で、Bに嫌な性質を先に見出して、A~Aに変えたからと言って~が変わるわけでもなければ、Aの性質が変わるわけでもない。下らないなぁ、と、

 

私は、そこに、虚像のモラル、清純さ、神々しさを勝手に見出した。ほかの変わらない者たちに飽いてしまって、それが異色だったから興味を示したのかもしれない。今までにない感じを受けたのかもしれない。一部では、成立し、一部では成立しない。どこの世界にも当てはまるただそれだけのことだった。

 

 

本当のところが見えてしまうからこそ裏切られる、その事実は、本来の状態に対しては影響の与えることのないただの事実でしかない。見誤った端の情報でしかないはずだ。だが、-ーー人間は受けた情報に対して感受性を持ち、そこから虚の下らない意味のない世界を見出す。だが、それは行動原理となり、意味のない世界から、実際の結果へと反映されるように動く。人間は、情報を感じたとき、それを無かったものとせず、こうして書いたり、しゃべったり、行動したりする。知覚した情報は、実際にはどんな意味のない情報でも個々が持つ虚の世界へ影響を及ぼす物なら、感受性が発揮され、行動へと還る。ーー

 

 

理数科目はいい。真実さえ見据えていれば受け入れられる。真実を見据えきれず追いつけず、振り落とされるところまでも常人のキャパなら見えてしまうが、

私はどうであろうか。

 

ただ欠陥は、振り落とされた常人たちには面白みがないと判断されてしまうことであろうか。安っぽいものへ逃げたがるらしい。いや、自分を受け入れられてくれるところへ逃げたがるらしい。私とてそうだ。どこのコミュニティにも合わずとも、数学をやっていれば肯定感は揺らがない。他では得られることのない高揚感がある。

 

 

 

うーん、とはいえこれからは某SNSではネガティブ発言をしないようにしていく(まぁ何度も宣言したんですけどね。)

 

某離散塾の経営者が、人間の行動原理は、承認欲求とくだらない欲求だといっていたがそうなのだろうか。まぁ9割がたそうなのであろうとは思う。

 

 

 

思ったことはどこかにこうやって吐き出したいという気持ちはある。だが、共感されるとは限らないし、別にやすく共感を得たいわけでもない。こういった、見る人が少ない場に、書き留めていくのがいいだろう。

 

 

知ったかの知識を披露することがはたして、ホントに成長につながるのだろうか。

 

上手い文章の書き方がわからん。

何かを教えるにしても、概念を非言語的な部分でつかんでいても、それを言語にして示せなければ人間には価値がないと判断される。大事なのは、伝え方、というのもある、中身がスカスカの人間でも、人を魅せられるのはそういうことなんだろうなぁと思う。

 

 

うまいシステムを作り出さねば

 

 

ああそうだ、課題をやらなきゃなぁ...と思ったけれど今週は課題一つもやりません。